女性蔑視?女の敵は女?性差ではなく個人差が大事

ハラスメントという概念が日本に取り入れられたのは、セクハラが最初でした。そして、セクハラの被害者は女性、加害者は男性というパターンが数としては多いので、男性の女性に対する言動が問題にされる機会が増えました。このような風潮に対し、おもしろくない思いを抱えている男性もいるでしょう。

なぜ男側ばかりが女性に気を使わなければならないのか。相手の受け取り方次第で何でもセクハラと言われてしまうなら、本当はなんとも思っていないのに嫌がらせでセクハラ加害者に仕立て上げることも可能ではないか、そんな定義はおかしいのではないかと考えるのも、分からないではありません。

女性蔑視という言葉がありますが、これは元々社会の中で女性の権利がじゅうぶんではなかったという現実からうまれた概念です。しかし、セクハラを盾に女性に対して何も言わせない風潮が行き過ぎてしまうと、逆に女性の方が強いじゃないかと感じ、女性蔑視という言葉に嫌悪感を抱く人も出てきます。

また、女性同士でもハラスメントに対する考えの違いから、敵対してしまうことがあります。男性社会の中で孤軍奮闘してキャリアを築き上げてきたような能力の高い女性は、セクハラなどに苦しむ女性に対して、理解に苦しむことがあります。自分自身が辛いことも乗り越えてきたため、誰だって自分と同じように努力すればセクハラも跳ね返せる、すなわちセクハラに悩むのは努力不足だったり心が弱いからだと考える傾向があります。

女性の中には結婚して家庭に入り子育てをするのが幸せと感じる人もいれば、子どもがいると思う存分仕事ができないから子どもはいらないという人もいます。育児と仕事を両立させたいと考える人もいます。どの考えが良いとか悪いとかいうものではありません。

家事育児に専念したい人は、子どもを預けて働いている人を見て「子どもがかわいそう」と思うかもしれません。一方、仕事を人生の中心に考えたい人は、専業主婦がいるから、いつまでも「女性の役割は家事育児」という固定観念がなくならず、女性が働きにくいのだと憎々しく思うこともあるかもしれません。女の敵は女と言いますが、このような現状を思うと、言い得て妙です。

このように、男性も女性もハラスメントや性役割に関して、それぞれに思うところがあります。お互いを傷つけあいたいわけではないのに、なぜ男性vs女性もしくは女性vs女性で対立してしまうのでしょうか。問題は、「女性」「男性」と一括りに考えてしまうことにあるのです。

女性の中にいろいろなタイプがあるのは上にも少し書きましたが、男性も同様です。繊細な料理が得意だけど力は弱いという男性もいれば、涙もろい男性だっています。専業「主夫」に向いている男性も現に存在します。女性の中にだって、性的な話題も全然気にせず大っぴらに何でも話せる人もいます。

要は、性別で括らず、個人差に注目してそれを尊重する態度が必要だということです。「男だから」「女だから」という考えは固定観念にすぎず、誰の中にも当てはまるところとそうでないところがあるはずです。また、同じ性別だから、自分と同じはずと考えるのも正しくありません。

仲が良く何でも話せる相手には下ネタ話も問題なかったからといって、別の人に同じ話をしたらセクハラになるかもしれません。自分のつわりが軽かったからといって、つわりで苦しむ人に「甘えてる」と言うのはマタハラです。

このように、性別で一概に考えず、「私はこうだったけど、あの人は違うかも」「この人にはOKだったけど、あの人にはダメかも」という視点を常に忘れないことが、ハラスメントのない社会の第一歩です。